
映画『教皇選挙』予告篇
Wikipedia)監督 エドワード・ベルガー 脚本 ピーター・ストローハン 原作 ロバート・ハリス
『教皇選挙』(きょうこうせんきょ、原題: Conclave)は、2024年制作のアメリカ合衆国・イギリスのミステリー映画。
ドキュメンタリーにしては、重厚で美しいビジュアル。それに、名演技に支えられた非日常的で緊張感のあるストリーで多くの批評家・観客に好評。映像・音響・撮影による緊迫感の演出も見所だ。
一方で宗教的、保守的な視点からの批判もあり評価は一枚岩ではないが宗教や権力の深層に迫る力作として、論争を呼びつつも印象に残る映画とおおむね好評。
★印象的なタイミングの現実との「シンクロ」(同時性と類似性=描写の正確さ)
映画公開数ヶ月後の2025年4月21日に実際にローマ教皇フランシスコが88歳で逝去。 ”まるで現実を予見していたかのようなタイミング”で現実とシンクロする。
しかし現実との「同時性」について、制作陣が意図的に予測したという発言はみあたらない。この点を先に押さえてみると、描写のあまりのリアルさと脚色の間でドキュメンタリー?と悩まず「安心して」して視聴できるだろう。これは政治ミステリードラマなのだ。
☆映画が一部の枢機卿によって“参考資料”的に視聴された(実際の教皇も視聴した可能性あり)ともいわれる。
儀式・舞台の再現は精密かつ映像は芸術的。ただし、一部は現実にはあり得ない明白な脚色である点も押さえたい。
ベルガー監督の言葉
インタビューでは「宗教批判や特定の政治キャンペーンではない。これは“人間が権力の空白をどう埋めるか”という普遍的テーマを描いた」と繰り返している。
つまり、直接的に政治的批判はしないが、もちろん寓話的解釈を否定するものではない。「世界的な政治の右傾化に対する警鐘」という読解は成立し得るが、それを製作者が唯一の解釈として提示しているわけではない、という位置づけになると思う。
★★★★★そこで、主人公でコンクラーベを仕切るローレンス枢機卿の以下の説教は、この映画の思想的な“芯”を最も端的に表している部分だと思うので一点だけ詳しく述べる 。
それは、始まりの0時間36分ごろから。
ローレンス枢機卿が用意された原稿を「つまらない」と言って自分の言葉でしゃべりだすシーンだ。
非常に簡略化していうと「確信は罪」という逆説です。
ローレンス枢機卿が言う「確信(conviction)は罪である」という言葉は、一般的な宗教のイメージ(確信=信仰の強さ)とは真逆に聞こえる。
彼は「確信が強すぎると、人を分断し、寛容さを失わせる」と指摘する。
ここには、信念やイデオロギーの“純粋さ”がしばしば不寛容と排除に転じ、共同体を壊すという、現代社会に通じる批評がある。
リベラル的解釈
この台詞を聞いた観客は、自然と「確信=硬直したイデオロギー」「寛容=リベラルな態度」と読み替えやすい。
特に説教の「キリストでさえ最期には確信を失った」というくだりは挑発的で、信仰の本質を“疑念や揺らぎを抱えながら歩むこと”に置き直しているようにみえる。
これは、伝統的なカトリック的教義(確信・教条主義)よりも、リベラル神学や対話的信仰に親和的なメッセージといえる。
「寛容」から始まり、「一個人や一派が他社を支配してはならい」、「神から教会への賜物とは『多様性』だとパウロは言った」、「教会は伝統ではなく、進歩する」(←他の枢機卿の言葉)など。
その説教の少し前に黒人枢機卿がローレンス枢機卿に「説教で大事なのは万人受け=角を立てないこと」と助言するシーンがあります。(その前の、ローレンスが黒人枢機卿の自身のスキャンダルについての告白(告解)を聞くシーンも併せて考えると、この映画の予想外の結末と同様、非常に示唆的だ。
黒人枢機卿の助言に、ローレンスがうなずいた上で「確信は罪」と続ける。つまり彼は「絶対に正しいと信じる言葉」よりも「人々を結びつける柔らかい言葉」を重視しているのだ。
この流れは、まさに不寛容な“確信”より、対話と共感を選ぶ姿勢を象徴している。
まとめ
イエス自身が“確信の喪失”を経験したと読む解釈は、信仰を「揺らぎの中の歩み」と見るリベラル的視点。
映画的には、「確信は罪」という言葉は、現代政治における硬直したイデオロギー(ナショナリズム、宗教原理主義、排外主義)への警鐘ではないのか。
現実政治との接点としては、世界的な右傾化、日本における保守的政党の躍進などは、まさに「確信が共同体を分断する」事例の一つと、見ることもできる。
(寓話としてだが)最も保守的で家父長制的な制度のバチカンを舞台にリベラルな価値(寛容、揺らぎの容認)を描くこと自体が、現代世界への強いメッセージとなっている。前述したように、この映画は宗教批判や特定の政治キャンペーンではなく、この映画の主旨ではもちろんない。