
『ひまわり』(原題 I Girasoli/英題 Sunflower)日本公開は1970年
イタリア映画黄金期を代表する名匠 ヴィットリオ・デ・シーカ が監督し、ソフィア・ローレン と マルチェロ・マストロヤンニ が共演した戦争メロドラマ。
公開当時、日本でも大ヒットし、特にヘンリー・マンシーニによる哀切な主題曲は、「戦争によって引き裂かれる愛」の象徴として長く親しまれている。
「自転車泥棒」と「ひまわり」は似て見えるのか。
――ヴィットリオ・デ・シーカが描いた、“回復しない人生”
ヴィットリオ・デ・シーカ の代表作としてよく挙げられるのが、
自転車泥棒 とひまわり である。


しかしこの二本、初見ではかなり印象が違う。
『自転車泥棒』は、
白黒、貧しい街角、非職業俳優のようなリアリズム、小さな日常事件
による、静かな映画だ。
一方『ひまわり』は、
国境を越える物語
戦争
ソフィア・ローレンという大スター
音楽と広大な風景
を持つ感情的メロドラマである。
映像的にも物語のスケールでも、むしろ対極に見える。
だが不思議なことに、観終わった後に残る感触はどこか似ている。
それはおそらく、デ・シーカ監督が一貫して、
「人生は簡単には回復しない」
という現実を描き続けた監督だからだ。
「悪者」がいない世界
まず印象的なのは、両作とも明確な悪人が存在しないことである。
『自転車泥棒』では、自転車を盗んだ青年もまた貧しい。
加害者でありながら、彼も社会の被害者なのだ。
戦後イタリアの失業と混乱の中では、
善人、悪人を単純に分けられない。
社会そのものが人間を追い詰めているからである。
『ひまわり』も同じだ。
戦争によって引き裂かれた夫は、単純な裏切り者としては描かれない。
ソ連で新しい家庭を築いたことさえ、「生き延びるための選択」として映る。
つまり両作とも、
「誰か一人を責めても、人生は元に戻らない」
という感覚に支配されている。
これはハリウッド映画的な善悪対立とはかなり異なる。
家族映画に見えて、“個人”の映画
両作とも、一見すると家族の物語だ。
しかし本当に描かれているのは、「孤独な個人」である。
『自転車泥棒』は父と息子の映画として有名だが、ラストに残るのは、
“父親として失敗した一人の男”
の姿である。
群衆の中へ消えていくラストは、戦後社会に埋もれる個人そのものだ。
『ひまわり』もまた、夫婦愛の映画に見えながら、最後には
“時間を失った一人の女性”
が残される。
戦争は愛だけでなく、「人生の連続性」そのものを壊してしまう。
デ・シーカ作品には、
人は最終的に孤独である
という感覚が、静かに流れている。
「捜す」物語なのに、回復しない
この二本には、「捜索」という共通構造もある。
『自転車泥棒』では主人公は盗まれた自転車を探し続ける。
だが本当に探しているのは、
仕事
尊厳
父親としての立場
である。
しかしそれは戻らない。
『ひまわり』で妻が探すのは行方不明の夫だ。
だが彼女が本当に探しているのは、
戦前の幸福
若さ
愛されていた時間
そのものだ。
夫を見つけても、“失われた時間”は戻らない。
つまり両作とも、
「見つかれば救われる」という物語ではない。
むしろ、
“人生には、戻らないものがある”
ことを描いている。
世界は、何事もなく続いていく
デ・シーカ映画の残酷さはここにある。
個人がどれほど苦しんでも、世界は止まらない。
『自転車泥棒』では、ローマの街は主人公の絶望と無関係に動き続ける。
『ひまわり』でも、列車は走り、ひまわりは咲き、広大な大地は変わらず存在している。
つまり、
個人の悲劇は、世界にとっては小さい。
だが、だからこそリアルなのだ。
デ・シーカとイタリアン・ネオリアリズム
デ・シーカは、戦後イタリア映画を代表する「イタリアン・ネオリアリズム」の中心人物だった。
代表作には、
『自転車泥棒』
『靴みがき』
『ウンベルトD』
などがある。
それまでの映画がスターや豪華セット中心だったのに対し、ネオリアリズムは、
「名もない庶民の日常」
を映画の中心に置いた。
これは映画史上、非常に大きな転換だった。
世界映画への影響
デ・シーカの影響は世界中に広がった。
たとえば、
フランスのヌーヴェルヴァーグ
インドの サタジット・レイ
日本の 黒澤明 や 是枝裕和
イラン映画
など、多くの映画作家が影響を受けている。
特に、
「劇的事件ではなく、人間の生活そのものを描く」
という視線は、現代映画の基礎になった。
説明しすぎない演出、家族の沈黙、日常の観察
などは、是枝裕和作品に見られる。
「大事件」ではなく、「人生」を撮る
『自転車泥棒』と『ひまわり』は、見た目はかなり違う。
だがどちらも、
名もない庶民
回復しない喪失
続いていく世界
を描いている。
デ・シーカは、歴史や戦争そのものより、
“その中で生きる普通の人間”
を見続けた監督だった。
だから彼の映画は、70年以上経った今でも古びない。
派手なカタルシスはない。
だが観終わった後、
「人生とは、こういうものかもしれない」
という静かな感触だけが、長く残るのである。