
映画『かくしごと』(2024年)は、嘘によって結びついた擬似家族の物語である。認知症の父を抱える女性が、記憶を失った少年に出会い、「自分が母親だ」と名乗ることで始まるこの関係は、血縁でも制度でもなく、“虚構”によって支えられている。
本作を見てまず感じるのは、家庭内不和が人の人格形成に与える影響の大きさである。ただしそれは、単純な被害の物語ではない。人は壊れた関係の中で、ただ傷つくだけではなく、そこに適応しようとする。空気を読み、役割を演じ、ときに嘘をつく。その積み重ねが、ひとつの人格を形づくっていく。
劇中の少年はもちろん、主人公の千紗子自身もまた、そうした「環境への適応」としての人格を体現しているように見える。彼女のつく嘘は突発的なものではなく、むしろこれまでの人生の延長線上にある行為だろう。
ここで重要なのは、家庭内不和を単純に「夫婦の不和」として還元できない点である。本作がかいま見せるのは、家族というものが、父と母の関係だけで成立しているのではなく、成員それぞれのあいだに生じる相互作用の集積であるという事実だ。日々の些細なすれ違いや、偶然の出来事、言葉の行き違いといったものが折り重なり、それぞれの主観の中で意味づけられていく。その結果として「不和」が形成される。
つまり不和とは、誰か一人の意思や性格によって生まれるものではなく、関係の網の目の中で、時間をかけて沈殿していくものなのである。
さらに言えば、表面上は不和や不満として現れている関係であっても、その底流には、互いの本心をどこかで理解しているという、かすかな信頼が残っている場合もある。いわば日本的な「以心伝心」にも通じる感覚である。
しかし同時に、それは救いであると同時に、関係をこじらせる要因にもなる。分かってしまっているがゆえに言葉にできず、言葉にしないがゆえにすれ違いが固定化されていく。本作に漂う緊張は、単なる断絶ではなく、この「分かってしまっているのに、うまく関われない」という関係のねじれから生まれているように見える。
このねじれは、フェリーニの映画『道』におけるザンパノの振る舞いにも通じる。彼はジェルソミーナの存在をどこかで理解しながら、その思いを適切な形で表現することができず、結果として取り返しのつかない断絶へと至る。本作の人物たちもまた、同じように「理解しているのに関われない」不器用さを抱えているのである。
この作品が興味深いのは、家庭内不和の原因を誰か一人に押し付けない点にある。認知症の父は、過去においては家族を傷つけた存在であったかもしれないが、現在においては弱者でもある。千紗子もまた、少年を守ろうとする一方で、「母親」という嘘を押し付ける加害性を帯びる。登場人物たちは、被害者であると同時に加害者でもあるという、曖昧な位置に立たされている。
しかしその一方で、本作にはどこか絞り切れなさも残る。認知症、児童虐待、家族の断絶といった複数のテーマが並列的に置かれることで、物語の焦点がややぼやけてしまうのだ。本来であれば、家庭内不和がどのように生まれ、どのように再生産されていくのかという構造にまで踏み込めたはずだが、作品は途中から「それでも人は誰かを守ろうとする」という感情の流れへと収束していく。
ここで特に気になったのが、「母」の不在である。本作では父の存在感が強く、その影響は色濃く描かれるが、家庭という関係性を考えるならば、もう一方の軸である母の姿も掘り下げられるべきだったのではないか。母がどのように家族関係に関わり、あるいは関わらなかったのか。その空白は、千紗子の人格形成を考えるうえで重要な鍵になり得たはずである。
家庭内不和は、多くの場合、単独の原因ではなく、複数の関係と出来事の絡み合いによって生まれる。だからこそ、一方だけを描くと、どうしても像が単純化されてしまう。本作がもし母という存在にも光を当てていれば、「なぜこの家族はこうなったのか」という問いに、もう一歩深く迫ることができたかもしれない。
とはいえ、この作品の価値は、そうした“説明の不足”そのものにもあるように思える。現実の家庭もまた、きれいに整理できるものではない。誰が悪いのかを断定できず、それでも確かに歪みだけは残る。その「わかりきれなさ」を、本作はどこかで引き受けている。
『かくしごと』は、不和の原因を明確にする映画ではない。むしろ、不和のなかで人がどのように関係を結び直そうとするのか、その不器用な試みを描いた作品である。
そして最後まで残るのは、関係が修復されたかどうかではなく、「それでもどこかで分かり合っているかもしれない」という、かすかな感触である。その曖昧で頼りない信頼こそが、人と人とをかろうじてつなぎとめている。
嘘によってつながる家族は、決して理想的な形ではない。しかしその不完全さと、言葉にならない理解のあいだにこそ、人が他者と生きようとする切実さがにじんでいる。