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映画『UDON』2006年/  笑いとうどんの哲学

映画『UDON』2006年 日本

うどんの立ち食いシーンが印象に残る。立ち食いはらーめんよりうどんが似合う。なぜか、考えるてもよくわからない。

『UDON』が残したフィロソフィ

映画『UDON』は、軽やかなコメディとして多くの観客に受け入れられた作品。その奥には、もう一歩踏み込めば深い哲学へと至る回路が潜んでいる。うどんと笑い。一見無関係に見えるこの二つの営みは、実は驚くほどよく似ている。スタンドアップ漫才とうどんの立ち食いのシーンが印象的に残った。うどん屋の庭先でのシーンなど。

うどん屋、スタンドアップコメディーどちらも、目の前の誰かをほんのひととき幸せにする仕事である。舞台の上で笑いを取る芸人も、湯気の立つ一杯を差し出すうどん屋も、観客や客の反応から逃れることはできない。ウケなければ滑り、まずければ残される。評価は即座に返ってくる。その厳しさと引き換えに、成功の手応えもまた、直接的で確かなものとなる。

この「直接性」と「身体性」こそが、両者の共通点である。

主人公はアメリカでスタンドアップコメディに挑み、挫折して故郷に戻る。そこで出会うのが、父の世代が営んできたうどんの世界だ。本来であればここに、決定的な気づきがあってもよかったはずだ。笑わせることと、食べさせることは、方法こそ違えど、人を満たすという一点でつながっているのだと。

しかし映画は、その接続を直接的にはしていない。コメディは夢破れた過去として処理され、うどんは地域再生の象徴として描かれる。二つの営みは並置されるが、最後まで交わらない。そのため、主人公が再びアメリカへ戻るラストも、私には意味が宙に浮いたまま終わってしまう感がいなめない。

だが、この“未接続”こそが、逆に観客の想像力を呼び起こす。もし彼がアメリカで、父を思い出しながらうどんをすするとしたら・・・。そのとき彼は、ようやくはっきりと理解したのではないか。自分は場所を変えただけで、同じことをやっていたのだと。笑いも、うどんも、「目の前の誰かを満たす」という一点でつながっていたのだと。
考えてみれば、日本の芸能の源流にも、こうした「場の共有」がある。漫才や落語の芸人は、観客と同じ空気を吸い、同じ時間を生きる中で笑いを生み出してきた。一方、うどんもまた、讃岐の風土の中で人々の身体を支えてきた食文化である。そこにあるのは、抽象的な理念ではなく、極めて具体的な「生」の手触りだ。

さらに興味深いのは、讃岐うどんの起源に、弘法大師・空海が中国から製法を伝えたという説があることだ。真偽はともかく、この伝承は象徴的である。宗教者がもたらしたのが、難解な教義ではなく、日々の糧となる食であったとすれば、それは「人を救う」とは何かという問いに対する、一つの答えとも言えないだろうか。

笑いもまた、人を一瞬救う力を持つ。重苦しい現実を変えることはできなくても、その場の空気を変えることはできる。その意味で、うどんとコメディは、どちらも小さな救済の技術なのである。

『UDON』には原作小説はなく、実在の讃岐うどんブームをもとにしたオリジナル作品である。だからこそ、この映画は現実の断片を自由に組み替えながら、どこか寓話的な世界を形作っている。しかしその自由さゆえに、もう一歩、核心に踏み込むこともできたはずだ。

本作は結局のところ、「成功の物語」にとどまっているように見えたのだ。だがその裏側には、「なぜ人は満たされるのか」という問いが確かに潜んでいる。そしてその答えは、映画の中ではなく、観客の中に残される。

湯気の向こうで誰かが一杯をすする音。舞台の上で、わずかな間のあとに起こる笑い。そのどちらもが、世界をほんの少しだけやわらかくする行為だとしたら・・・。

『UDON』は、うどんの映画であると同時に、笑いの映画であり、そして語られなかったフィロソフィの映画でもあるのだ。

ーーー以下、想像してみた。
主人公が、アメリカで漫才がようやく受けたあと、楽屋でうどんをすする。
「・・・あったけぇなあ」
それは観客の笑いのことか、それとも香川の一杯のことか。たぶん両方だ。

 

2006年 134分 日本
配給:東宝

監督    本広克行
脚本    戸田山雅司
製作総指揮    亀山千広

ユースケ・サンタマリア
小西真奈美
トータス松本(ウルフルズ)
升毅
片桐仁(ラーメンズ)
要潤
小日向文世
木場勝己
鈴木京香
江守徹